No.28
フジテレビXRプロデューサー
北野 雄一さん(デジタルハリウッド大学院)
このインタビューは、2020年12月当時の内容です。
ロック・映画・テキストサイト配信を経て、エンターテイメントのメインストリームであったテレビ業界に。
- Q
- 北野さんがDHUと関わるようになったのは社会人学生として大学院に進学されてからですよね。それ以前の、学生時代からの期間はどんなことをされていたんでしょう?
- A
-
高校から大学時代にかけて、ロックスターに憧れてバンドをやっていました。しかし、一緒にやっていたギタリストが今でもプロとして活躍しているほどの才能の持ち主で、かっこよくて。隣にいて自分の限界を感じてしまい、音楽で食べていく道は諦めました。
ただ、その中で、人を楽しませるエンターテイメント全般に興味を持つようになり、音楽の次は映像に夢中になりました。大学は早稲田大学でロシア文学を専攻したのですが、それも映像理論のルーツがロシアにあることが理由でした。在学中は一時アメリカに留学し、映画産業について学んだりもしていましたが、ここでも卒業ができずに挫折しました。そこから帰国・早稲田大学に復学し、就職活動を始めるのですが、最初の年はうまくいきませんでした。
色々なものを見失い、自分のやりたいことについて改めて考える時間がほしくなったころに、インターネットでテキストサイトという文化に触れたのが転機でした。当時富士山の山頂にドコモの電波塔があったと思うんですが、富士山の山頂からサイトをリアルタイムで更新するという企画に挑戦してみようということになりました。それで富士山の山頂に59円バーガーを59個積み上げて、日本の標高を1メートル高くする「フジヤマック」というネタをやりました。
遭難をしかけたことで話題になったんですが、200万を超えるアクセスがあり、その年(2003年)のネットランナーという雑誌で、「ベストオブジャンキーサイト」というアワードにノミネートしてもらいました。YouTubeやライブ配信が流行するよりもずっと昔の話なのですが、今で言う「バズる」体験ができたことは、大きな自信となりました。面白いことを自分で企画して、多くの人に届けたい気持ちを確かめることができ、当時の必然で、テレビ局を目指すことになりました。
- Q
- もともとインターネットが転機になっていたんですね。ちなみに、フジテレビに入社してからはどんなことを?
- A
-
最初は総合バラエティ番組のアシスタントディレクターをしていました。スタジオ、ロケ、生放送と、一通りの制作を学んだところで営業に異動となり、クライアントの一社提供の特番やインフォマーシャルを企画するセールスプランナーも経験しました。放送本体で制作や営業を経験できたのは、今でも財産となっており、どんなコンテンツをプロデュースする時にも、何が面白いのか迷うことがあった場合には、「テレビ的な正解」に立ち戻ることがよくあります。
そんな中で、「今のテレビにはできないこと」にも同時に憧れるようになり、デジタルコンテンツに興味を持つようになりました。
「今のテレビにはできないこと」をかなえるために。DHU大学院との出会い。
- Q
- デジタルコンテンツに興味を持つようになってからは?
- A
- デジタル系の部署に希望を出して異動することになったのですが、最初に配属されたのは情報システム局でした。業務システムの開発・インフラの保守などをしていたのですが、腰を据えてITの根っこに取り組むことができ、後々とても役に立ちました。DHU大学院に進学したのもこのころで、昼も夜も膨大なインプットがある、刺激的な時間を過ごすことができました。
- Q
- 異動については、勇気のいる決断だったのでは?
- A
- 放送本体を離れることに少し不安はありました。ただ当時、テレビの元気がなくなり始めていたころで、時代に対する焦燥感を感じていた時期でもありました。XR関連の事業部ができるのが2016年ですが、DHU大学院に進学した時点(2012年)では、会社に還元できる明確なアウトプットのプランもなかったので、えいやで飛び込んだという感覚はあります。
ただ、デジタルかグローバルでしかコンテンツ産業を大きくすることはできないという思いがあったので、焦燥感に追われるよりも、何か新しいものに没頭したいという気持ちの方が強かったんだと思います。
- Q
- DHU大学院を選んだのはなぜ?
- A
-
情報システム局に配属されて夜の時間が空いたので、体系的に何かを学んでみたいと思っていました。DHU大学院との出会いは、たまたま杉山学長が出ている雑誌の記事を目にして、この人に会いたいと思ったことがきっかけでした。そのとき持っていた不安や焦燥感を、この人ならわかってくれるんじゃないかと。入試のプレゼンで初めてお会いしたのですが、熱意が伝わったのか特待生として入れてくれたので、この人の期待に応えようという気持ちで、修了までやり切ることができました。
あと、最近では井手上獏さん出演のCMに象徴されると思うんですが(「みんなを生きるな。自分を生きよう。」のメッセージ)、DHUが持つロックな精神性のようなものに、惹かれたんだと思います。自分が正しいと思うことを、正しいと言っていい場所で、新しいものを作ってみたいと思いました。
- Q
- 社会人と学生を並行することはハードルが高いようにも思えますが、ためらいはなかった?
- A
- どのぐらいの時間を費やすとどのぐらいのものが返ってくるのか、最初はわかっていなかったので、ハードルという意味では明確に設定されていなかったです。すぐにFGC(フューチャーゲートキャンプ)という合宿に放り込まれて、ノリがわかってきてからは、中途半端にやってはモノにならないことを悟ったので、いつの間にか常軌を逸したスケジュールになっていました。
- Q
- 実際、入学してみてどうだった?
- A
- よくもまあ、修了まで駆け抜けられたと思います。学長の期待に応えたいという気持ちもそうですが、テレビ局の人間が冷やかしのような感じで入ってきて、いつの間にかにいなくなっているようなことにはなりたくなかったので、そこはもう、自分との戦いだったと思います。会社の有給も、修了研究のTDW(東京デザイナーズウィーク)出展など、ほとんどを研究に使っていました。
仲間とともに駆け抜けた大学院時代。ゲームの自主制作などで失敗も。
- Q
- 大学院ではどんな学生でしたか?
- A
-
一匹狼という感じではなく、仲間と一緒に動くことも多かったです。個人での修了研究とは別に、大学院で出会った社会人学生を中心にした仲間とメディアアートのユニットを結成し、横浜駅西口にある伊東豊雄さんのモニュメント「風の塔」とコラボしたプロジェクションマッピングを企画したりしました。当時はまだプロジェクションマッピングが新しかったこともあって、2日間で5000人という最多の来街者動員記録(2013年)につながり、その年のデジタルフロンティア(デジハリグループ全体の成果発表会)で学長賞をもらいました。これこそ大人の文化祭という感じがして、とても楽しかったですね。
ほかにも、学部からそのまま院に上がった若いメンバーと自主制作のゲームを作ったりしていたんですが、こちらはやりたいことにこだわり過ぎて、結果が出せずに失敗しました。社会人学生として、もっと夢を見させてあげたかったと今でも思い出すことがありますが、そのときに書いたネタ帳はその後も読み返すことがあり、まったくの無駄ではなかったと思っています。
- Q
- どんなゲームを作っていたんですか?
- A
-
宗教におけるコミュニケーションをテーマにしたもので、キリストがパンを投げるシューティングゲームを作っていました。技術革新と布教には密接な関係があって、グーテンベルグの活版印刷の発明によって、聖書は写本から世界的な書物となり、キリスト教はローカルな信仰から世界宗教に発展しました。僕自身がキリスト教徒で、現代のデジタル技術によって、信仰にどのような使役ができるか挑戦したかったのですが、プロトタイプを開発した後に、ビジネスとしての展開先を見つけることができませんでした。
デジタルコミュニケーションの新しい形として、カンヌ広告祭にもエントリーしたのですが、僕が神職者ではないこともあったのか、取り合ってもらうことはできませんでした。おこがましかったのかも知れません。
- Q
- DHU大学院での学びは、本業につながりましたか?
- A
- 会社に還元できるアウトプットのプランがないまま飛び込んだDHU大学院でしたが、修了して間もなく、社内で新規コンテンツ事業の部署として、VR事業部が立ち上がることになり(2016年)、適任の人材として当時のコンテンツ事業局長から白羽の矢を立ててもらいました。時代が追い付いたという感覚もありましたが、もともと大好きだった会社の中で、僕にしかできない、オリジナルの立ち位置を見つけられたことがうれしかったです。
- Q
- すごい!すべてが報われた瞬間ですね!
DHU大学院で得た学びを手に、VR事業部の立ち上げに参加。新しい時代の共通言語を持ったプロデューサーとしての活躍。
- Q
- VR事業部立ち上げにあたって、具体的にどんなことが役に立ちましたか?
- A
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正直、具体的なことよりも、DHU大学院出身ということで、「わからないことは、こいつに聞けば何とかなるだろう」というポジションを社内で獲得できたことの方が大きかったです。誰もやったことがない・正解がわからないのが新規事業だと思いますし、僕は僕で「僕にわからなかったら誰にもわからないだろうという」開き直りや追い込みの中でやっていました。
その中で、正解に迷うことがあった場合に、デジタルコンテンツの業界の誰にアドバイスを求めるのがいいのか、インデックスとパスを作れたことは、心の支えになりました。また、選択した演習のおかげでUnityなどのソフトウェアや出始めのデバイスなどにはひと通り触れることができていて、その後のコンテンツ開発においてエンジニアとの共通言語を学べたことは、今でもありがたいと思っています。
- Q
- 新しい時代の技術を使う現場において、共通言語は重要なファクターですね。
- A
- 情報システム時代の経験も役に立っているのですが、プロジェクトマネージャー的な観点でコンテンツ開発のプロセスを見られるのは、大きな強みですね。インタラクティブなコンテンツにはプログラミングの要素が必然的に入ってきますが、そこを押さえていると映像としての表現の幅も格段に広がると思っているので、これまでの経験をすべて使って、新しいことに挑戦したいと思っています。
あくまでも、クリエイターとして。「ゼロからイチ」のモノづくりへの回帰
- Q
- まさに、社会人になって改めて学ぶということの意味を感じられました。アウトプットにはどのようなものがありますか?
- A
-
FOD VRというプラットフォームを展開し、番組、イベント、映画などとコラボして、多くのVRコンテンツを作ってきました。映像だけではなく、映画「いぬやしき」VRゲーム、アニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」AR謎解きゲームなどの開発もしています。
最近では、既存の番組やイベントとコラボするだけではなく、ゼロイチで新規の番組やイベントを自分で作りたいという気持ちが大きくなってきました。いくつか仕込んでいるので、形になったら発表をさせていただきます。
- Q
- 「ゼロイチ」という話にのっけると、DHU大学院の修了研究もキャラクター開発ですよね?
- A
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世界平和のメッセージを宿した、イスラエル大使館公認のゆるキャラ「フムスくん」を作りました。完璧ではないゆるくて不完全なデザインで人を楽しませるゆるキャラが、お互いをゆるすという感情のインターフェイスとして機能していることに注目し、「ゆるさとはゆるしのこと」というキャッチコピーを考えました。
フムスとはイスラエルの国民食で、ひよこ豆のペーストでできています。食材を民族、スパイスを価値観に見立て、ひとつに混じりあった姿が、まさにイスラエルの平和を象徴するものになると思ったので、モチーフとして起用しました。最終的に、駐日イスラエル大使にゆるキャラを通した国際交流と世界平和についてプレゼンする機会をいただいたのですが、コミュニケーションデザインの研究として評価をしてもらうことができました。
- Q
- 北野さん自身、これからについてはどのように考えているんでしょう?
- A
- DHU大学院修了後も、VR/ARコンテンツのプロデュース以外に、企業研究者として、AI/IoTを活用したコンテンツの研究などもしていたのですが、表示系・センサー系の技術も合わせて、XRという言葉でまとめられるようになってきた感じがあります。ここに軸足を置くと、まだまだこれからも、新しいコンテンツ開発を楽しんでいけると確信しています。
また最近では、グループ会社のVC(ベンチャーキャピタル)でXR関連の案件のサポートをすることもあり、ひとつの領域を深めると、色々な仕事のチャンスが生まれることがわかってきました。しばらくはこの技術の可能性にかけて、テレビ局の人間として、業界に貢献できるようにがんばりたいと思います。
あと、IPモノのプロデュースを手がけていると、どうしても自分で原作を作りたいという気持ちが出てきます。映像を志した最初のころから、SF作家になりたいという夢があるので、落ち着いたら、どこかで実現したいと思っています。
- Q
- さまざまな経験を経て、原点に返ってきたのですね。これからも応援しています!最後に、校友会へのコメントをお願いします。
- A
- これからも、DHUのロックな精神性を体現するべく、新しいことに挑戦していきたいと思います。交友会のメンバーは、同じDHUのOSが搭載された仲間だと思っていますので、一緒に未来を作っていけるとうれしいです。どこかでお会いしましたらよろしくお願いします!